今日の一枚 part

My style,My life 〜心に響く写真を、心に残る何かを。

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「どうしようもないほどうるさくて、ありえないほど近い」


osuka



子供の頃、"親に見られたくない何か"を隠し持っていた人は結構多いのではないだろうか。

 
私はというと、確か日記をつけていたように思う。

他には幼いながらに夢見ていたものがあり、それを知られるのが恥ずかしくて、こっそり集めた纏わる資料などをタンスの奥の方だったり、あるいは意識しなければ気付かないであろう本棚の隙間に忍ばせておいたように記憶している。

 
「きっと、ママは知らないはず」

 
自分が隠した場所は、当然見つからないと確信している場所を選ぶわけで、幼い私はそんな自信を持っていた。

これは誰も知らない私だけの秘密であると。

 
けれど大人になってから振り返れば、あの頃は限りなく世界が狭かったなぁと思い出す。自分の生活するスペースや行動範囲なんてたかが知れていたし、お金を持たない分、所有する物だって限りある。それは大人になった自分から見れば、小さい小さい世界。そんな小さい世界の中のどこに何があるかなんて、大人からすれば手のひらを眺めるように容易いものだろう。



 


photo by mamiya2
 

この映画の主人公であるオスカーは、自分の事を「利口だけど不器用な人」と称するように、アスペルガー症候群というコミュニケーション障害を抱える少年だ。

そんな少年に対等に向き合い、いつも遊んでくれた父がいる。お茶目で頼もしくて、出来ない自分を叱ることなく辛抱強く待ってくれた父。友達のいない彼の中で、父の存在は彼の世界の中心といえただろう。

けれども、
ある日、突然、その父親を失ってしまう。
9.11テロという悲惨な形で。


その事件当日、少年は、崩れゆく運命にあったビルの中から最後の間際に父親がかけてきた留守電メッセージを聞く。何度も何度も彼に問いかける父の声。けれど少年は怖くて出れない。そして父からの電話は2度と鳴ることはなかった・・・。

 
何が、あったのか。
何を、してしまったのか。
自分がどれだけ取り返しのつかない事をしてしまったか。
父がどれほど遠いところへ行ってしまったのか。

何が起こったのか理解した少年は、内から湧いてくる激しい後悔を抑え込むように、咄嗟にそのメッセージごと電話をタンスの奥に隠し、父の声を日々聞いては狂おしいほどの自責の念に苦しんでいた。

メッセージは、母親にも聞かせていない。
少年にとっての重大な秘密がここで出来た。


そして少年は、埃ひとつ動かぬ父親の部屋を訪れ、スーツのにおいを嗅ぎ、もっと父親に近づこうと何かを探る。

その際にうっかり落としてしまった青い花瓶。同時にその中に隠されていた鍵を見つける。一体この鍵は何の鍵なのか?その先には何が隠されているのか?どこにその鍵穴はあるのか?その先には父親が自分に残したメッセージがあるのではないか?そして少年に二つ目の秘密ができる。

その鍵の謎を解明すべく、たったひとつのヒントと鍵を胸に冒険の日々が始まる。
これが物語の主軸だ。

探せば探すほど、父親に近づいていくように錯覚できる一方で、同時に積み重なっていく母親への嘘。遠くなる母親との距離。

世界の中心を失ったオスカーはとても不安定になり、「あのビルにいたのがママだったらよかったのに」とまで母親に言ってしまう。

 
 

"どうしようもないほどうるさくて、ありえないほど近い" 存在。

 
その存在とは、最初はオスカーが慕い、死んでもなお心に生き続ける父親のことかと思っていた。
けれど最後には、母親のことだったんじゃないかと思い始める。


遠く遠くはねつけて、沢山の隠し事と、積み重なっていく嘘。
諦めたように何も言わなくなる母親。交わす言葉も減り、どんどん遠くなる心の距離。

けれど最後には、どれだけ母親が近い存在だったかを知ることになる。

 
 

そう、そうだったよね。
きっと私もそうだったんだ。
あの頃の私も、母の手のひらの上で隠し事をしていたようなものなのだ。きっと。
 

母は私にその事を触れてきたことはない。
だから「知ってる」という事実はあったのかなかったのかそれさえ定かではない。

けれど今の私は確信に近い気持ちで言える。

「きっと、ママは全部知っていた」

 
私が密かに抱いていた夢も、そしてそれに破れたことも、初めての彼氏が出来たことも、泣きわめくほど辛い思いをした出来事も、きっと母は全部知っていた。知っていて、私には何も言わなかった。ただ見守っていたのだと思う。



話が変わって、
 

最近、幼稚園児の子供を持つ友達との話の中でこんなことを言っていた。

目の前で娘が友達に意地悪な事をされている。子供は残酷だ。「○○ちゃんにはあげない」とか、平気でそんな事を言う。そんな風に意地悪をされている娘を見ると、母親としては可哀そうで可哀そうでたまらないと。けれど大人が手出しをしてはいけない。子供には子供の社会がある。そして辛い気持をぐっと我慢して、我が子が乗り越える力を持っていると信じるしかないと。

 
この話は私に新しい視点を与えてくれた。
これまでの私も、そしてオスカーも、隠し事をする子供目線だ。
けれど母親目線で見てみると、「見守る」という言葉に内包されたとてつもない痛みを伴う深い愛情に気付く。
 

母親にとって、子供の痛みは自分の痛みだ。
いつまでたっても子供は子供であるように、その痛みも子供が何歳になろうがきっと変わらないんだろう。
 

黙って、じっと見守り続けた母親。
それは暖かさだけが伴う愛情ではなくて、胸が引きちぎられる程の痛みも伴う愛情。

あの頃は限りなく世界が狭くて、けれどその分幸せだったなぁと思い出す。
そんな痛みも何も知らずに、私は母の膝の上で幸せに転がっていたのだから。


だからなんだろうか。
子供の頃の記憶は、なぜかいつだって燦々と太陽の光が降り注いでいる。
それは母親の愛情の色だったのかもしれない。


 

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